【LOVE CARストーリー】岡崎宏司/つねにクルマに夢中のライフスタイル。数多くのクルマで世界中を走りまわり、新型車開発にも積極的に関わってきた

岡崎宏司/モータージャーナリスト

モータージャーナリストを目指したきっかけはCG誌の創刊でした

 ボクがモータージャーナリストになったきっかけは、1962年の『カーグラフィック』創刊です。創刊編集長の小林彰太郎さんは、それまでにも『モーターマガジン』などで知っていましたが、『カーグラフィック』は欧米の雑誌のような印象で、憧れました。ボクはTVなどのシナリオライターを目指していて、TV局への就職が内定していました。それを白紙に戻し、自動車雑誌の世界に飛び込んだのです。

 最初は『ドライバー』の編集部員になりました。当時の編集長が気骨のある方で、意気投合。新人なのに入社早々、輸入車とスポーツカーの2本のメイン特集を任せてくれました。1960年代初頭は、第1回日本GPが開催され、自動車熱が一気に高まると同時に、日本のモータリーゼーションが開花した時期です。メーカーとのつながりも早いペースでできて、いろいろ勉強させてもらいました。

MGA

MGB

 自動車の免許は16歳で取得しました。すでに家にクルマがあったので、中学生時代から家の庭(300坪ほどもあった)でクルマを動かしていました(笑)。だから免許は教習所など行かずに一発で試験にパス。それでも、高校生時代はバイクに夢中でした。当時友人たちと『チームエイト』というクラブを作っていて、学校から帰宅後、六本木などに集まり、時には湘南の江ノ島までツーリング。休日はたいてい箱根や日光まで遠征していました。

 その時代、高校の修学旅行に行く仲間を東京駅で見送り、横浜までバイクで疾走。駅で出迎えたことがありました。東京駅から横浜駅までの所要タイムはたった18分。首都高や高速道路がない時代、どう走ったのかもう覚えていませんが、とにかくバイクに熱中していました。

 チームエイトには、トヨタのワークスで活躍する河合稔や高橋利明などもいました。自慢だったのは、速さで有名なチームでしたが、いくら飛ばしても絶対に事故を起こさないというルールを守ったこと。周囲の状況を的確に判断し、危険から未然に身を守る術は、この頃に身につけたのだと思います。

 バイクからクルマに転向したのは、大学生時代。当時、学校にシトロエン2CVで通っている女子学生がいました。興味を抱いて声をかけたのが、現在の妻。妻の家には、当時シトロエン2CVと大型の11CVがあり、父親はビュイックに乗っていました。そして彼女のお兄さんは大のクルマ好き。ボクはすぐに気に入られ、当時は珍しかったスポーツカーなどにも乗せてもらったものです。若い時期に、豊富なクルマ体験ができたのは、周囲に恵まれたからですね。

2CV

ベレット

 話を『ドライバー』編集部時代に戻します。実は入社してすぐに有給休暇を取得して2カ月ほど世界一周の旅に出ました。父親が世界一周の航空チケットを手配してくれたからで、まずは米国カリフォルニア州ロサンゼルスに飛びました。友人がサンタモニカ在住の親戚を紹介してくれて、その人が母親のように世話をしてくれました。ここではすぐにたくさんの友人ができました。夜はパーティ、昼間はピックニックなどに呼んでくれ、楽しかったです。ボクは、デビューしたばかりのフォード・マスタングのレンタカーを借りて朝から晩まで走り回り、気づけば1カ月もロスに滞在していました。ですが、目標は世界一周。後ろ髪を引かれる思いでニューヨークに移動。その後、ローマ、パリ、ロンドンと回りました。

マスタング

 ロンドンでは、つたない英語で取材用としてバンデン・プラ1100を2週間ほど借りました。そうそう、この旅で忘れられないのがロールス・ロイス社訪問。工場などを取材したいと、連絡すると快諾してくれました。ロンドン郊外のクルーの駅に着くとファントムが止まっていて、さすがロールスの地元だな、と感心していると運転手が「サー・オカザキ、お迎えに上がりました」と。なんとボクを迎えに来たクルマでした。その後席のなんとも落ち着かなかったこと。まだ20代前半の若造には、ロールスに乗る所作はわかりませんから。工場では広報の方が親切に対応してくださり、見学後はシルバーストーン・サーキットにシルバークラウドで連れて行ってくれて、試乗が叶いました。最初は恐る恐る静かに走っていたのですが、広報の方は「もっと飛ばして真価を味わってください」とおっしゃる。そこで思い切ってペースを上げたら、驚きましたね。ロールスの走り、それはもう凄かったです。この旅のもようは『ドライバー』誌に掲載。一生の思い出になりました。

岡崎さん

 その後もVWビートルのバギーに感銘を受けてメイヤーズマンクスの本社を訪問したり、ミニ・クーパー成功の原点ともなったクラシックミニのスポーツモデルを生んだ、ダウントン・ミニの工場を訪ねたりと、思い立ったらすぐに行動に移していたことを覚えています。

ボクのゼロヨン走行技術にメーカーが注目してくれた

 ボクがメーカーと太いパイプを築けたのは、ゼロヨン加速の技術に優れていたのと、クルマの限界域まできちんとテストすることができたからだと思います。1965年に初代シルビアが登場したとき、メーカーの公表タイムは17.4秒だったのに、ボクは0.7秒も速い16.7秒を叩き出したのです。当時はゼロヨンの速さが話題になる時代性でしたから、ボクは、あっという間に自動車界の有名人(笑)になりました。それ以降、メーカーからテストの依頼も増えました。スカイラインの名設計者、櫻井真一郎さんからも声がかかり、櫻井さんはボクを「限界に挑む男」と呼んでくれました。

 メインは初代のGT-R。ボクに期待されたのはゼロヨンの速さに加えて、限界時を含めた挙動チェック。当時、メーカーのテストドライバーでもなかなか限界領域までテストできる状況ではありませんでした。日産は、ボクにフェアレディZ432のレーシングカーを提供してくれ、トップレーサーの北野元選手をアドバイザーにつけてくれました。熱心に走り込んだ甲斐あって、メーカーの選手とさほど見劣りしないタイムまでに成長しました。いい時代でしたね。

Z

 多方面で忙しくなった事情もあり、ドライバー編集部は3年半ほどで退職。以後はフリーランスで活動してきました。当時、若者向け一般誌の『週刊プレイボーイ』が創刊(1966年)され、そのクルマ記事を担当。新聞では毎日新聞系のメディアに寄稿しました。ボクは「一業一誌」をポリシーとしており、『カー・アンド・ドライバー』の創刊(1978年)以降は、自動車専門誌はカードラだけに絞っています。とにかく忙しかったですが、楽しい毎日でしたね。

開発体制再構築のお手伝いができた

 ボクの勲章は、多くのクルマの開発に携われたことと、日本メーカーの開発体制を再構築する手助けができたことだと思います。
 たくさんのクルマに関係しましたが、しだいにテスト段階からではなく企画段階からも参画するようになりました。思い出に残っているのは初代のトヨタMR2(1984年)。日本初の量産MR車ということで、メーカーは気合が入っていました。ですが、最後までハンドリングが決まらなかったのです。そこで箱根の道を借り切ってのテストにボクも呼び出され、足回りを再調律するお手伝いをしました。最初は滑り出すと挙動が定まらない怖いクルマでしたが、最終的には納得のいくライトスポーツに仕上がったと思います。

MR2

 R32から始まる新生GT-Rも思い出深いです。R32/R33/R34/R35の4世代の開発に携わったのは外部ではボクだけでしょう。開発を主導した水野和敏さんは厳しい人で、R35の開発時、「どうしても公道で300km/hを達成する」と譲りません。アウトバーンの下り勾配の空いているルートを探してトライ。当初は298km/hまでしか到達しませんでしたが、その後進化し、300km/hが容易に出せるようになりました。
 クルマの開発は、明確にクルマがよくなるプロセスが実感でき、喜びが感じられる充実した仕事でした。

R32

 日本の自動車メーカーの開発体制刷新にも、多少の貢献ができたと思います。1970年代後半になると、ボク自身海外メーカーともいろいろなパイプが構築でき始めて、メルセデス、BMW、アウディ、ロータスなどの開発現場を訪れる機会が増えました。そこで感じたのは、開発体制の違いです。当時、日本のメーカーには安全に対する縛りがあって、限界領域のテストに制約がありました。また、当時は満足なハンドリングチェック用のテストコースもありませんでした。

 ボクは今後の日本車の発展には、開発体制の刷新が絶対に必要だと考え、メーカーに提言しました。そして興味を持った、ある大メーカーの開発担当トップに欧州メーカーの開発現場のリアルを体験してもらうことにしました。ボクはメルセデスやBMWなど5社に連絡。「最も優れたテストドライバーの運転で、最も厳しいテストコースでのテストを、日本メーカーの開発責任者に体感させてほしい」と頼み、アレンジしました。

R35

 その効果は劇的なほどでした。その大メーカーは、帰国後、すぐにテストコースの設置に動きました。ボクは「今後の開発を担うテストドライバーを20名ほど選び、欧州を中心に2カ月ほど走り込む」プランも提案。「これからの開発には、世界の道を体で覚えることが大切」と訴えました。併せて欧州メーカーの開発現場も体験するプログラムも、準備しました。

 メーカーはボクの意見を真摯に聞き入れてくれて、1980年代半ばにはほとんどのメーカーが「生きたハンドリング」が追求できる立派なテストコースを持つようになり、開発体制は生まれ変わりました。これが1988年から90年代前半の日本車黄金時代につながります。それに少しでも関与でき、本当にうれしいです。

208

 現在の愛車は、もう5年のつきあいになるプジョーe208。ボクはもともとBEVに興味があり、その走り味、ピックアップのよさが大好き。フランス車にも興味があったことで、e208はデビューと同時にディーラーで試乗。その場で購入を決めました。コンパクトなサイズ、スタイル、パフォーマンス、どこも気に入っています。

 この208の開発時にプジョーのトップだったカルロス・タバレス氏を信頼、尊敬しており、彼が手がけたクルマという点も魅力でした。彼は一時、レースでも活躍していました。e208の素晴らしいハンドリングは、タバレス氏の功績でしょう。

 多くのクルマとつきあってきましたが、車検を2回も更新したのは2台目です。これからもしばらくはボクのガレージに収まっているでしょう。本当に愛しています。

アウディ

アルファ

カット

【プロフィール】
おかざき こうじ/モータージャーナリスト、1940年、東京都生まれ。日本大学芸術学部在学中から国内ラリーに参戦し、卒業後、雑誌編集者を経てフリーランスに。本誌では創刊時からメインライターとして活躍。その的確な評価とドライビングスキルには定評がある。AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員

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