
ランボルギーニ・ミウラSV。SVは1971〜72年に生産されたミウラの進化バージョン。リアのトレッドを130mm拡大しフットワークを改善。4リッター・V12DOHCはドライサンプ化され最高出力は385psにアップ。トップスピードは285km/hを誇った
ランボルギーニ・ミウラは、いったいどのように生まれ、なぜ60年を経た現在も特別な存在なのだろうか。
2026年は、ミウラが1966年ジュネーブ・ショーで世界に姿を現してから60周年にあたる。その節目に、ランボルギーニはミウラをあらためてブランドの原点として祝福した。博物館では記念展示が行われ、北イタリアではミウラによる60周年ジロ(ツアー)も開催された。ミウラはいまや保存すべき古典であると同時に、走らせ、体験し、その本質を問い直すに値するクルマとして扱われている。
その理由を考えるには、まず誕生の経緯に立ち返る必要がある。1965年、創業間もないランボルギーニの開発部門で、若いエンジニアたちが休み時間の議論からひとつの構想を捻り出す。テーマは、当時ようやくロードカーに応用され始めたミッドシップ・レイアウトを、自社のV12エンジンで成立させられるかどうか、だった。
議論を主導したのはジャンパオロ・ダラーラ。フェラーリやマセラティを経て新興ランボルギーニに移ったこの若き技術者は、巨大なV12を積み、レーシングカーのように走り、しかもロードカーとして成立する新しい高性能車を夢見た。
12気筒ミッドシップ車をロードカーとして成立させるうえで最大の障害は全長だった。そこでダラーラたちは400GT用4リッター・V12をミッションと一体化して横置きする案にたどり着く。
その構想は1965年11月のトリノショーで、ローリングシャシー、 TP400GTとして披露された。ボディすら持たないシャシー単体が大きな反響を呼んだのは、それが単なる技術展示ではなく、ランボルギーニの未来に見えたからだろう。
フェルッチョ・ランボルギーニはただちに市販化へ舵を切る。熱狂をチャンスに変える判断の速さに、彼の実業家としての鋭さが表れている。
スタイリングを担ったのは、ベルトーネの若き天才マルチェロ・ガンディーニ。彼は流麗な美しさと、最新ミッドシップ・シャシーの緊張感を、ほとんど奇跡のような均衡でひとつにまとめ上げた。そうしてわずか3カ月ほどで完成させ1966年3月に発表されたのがミウラである。
ミウラを真横から見ると、まるでFRクーペのようだ。MRにはまるで思えない。どこにエンジンが収まっているのか直感させないほど自然で、その意外性こそが造形を特別なものにした。先鋭的な技術を古典的な美の文法で包み込んだ点に、ミウラの決定的な新しさがある。
ミウラは生まれた瞬間から「古典」になる運命を持っていた。後にカウンタックが登場すると、一時は古く見えた。だが、その価値はむしろ明瞭になったというべきだ。
その本質を体感する機会を得た。ところはダラーラの故郷であり、レーシングカーコンストラクターとして著名なダラーラ・アウトモビリアのあるヴァラーノ。幸運にもミニサーキットで本社のポロストリコ部門が仕上げたミウラSVのステアリングを握ったのだ。
低いシートに身を沈め、キーを一段ひねって燃料ポンプを動かす。しばらく待ってから、もう一段ひねり、右足でアクセルを踏み込む。次の瞬間、リアカウルの奥でV12がたまっていた空気を吐き出すように目を覚ました。音と振動と匂いが一度に立ち上がり、半世紀以上前の機械と向き合っているという感覚が、いきなり現実になる。
クラッチは意外に軽く、アクセルはやや重い。だが走り出してしまえば、すぐに体になじむ。何より驚くのは車体の軽さだ。右足を踏み込んだ瞬間、このクルマがなぜ世界を驚かせたのかが腑に落ちた。常用領域においてミウラはこのうえなく楽しく、しかも扱いやすい。軽やかで速く、乗り心地も悪くない。フロントのグリップにも不安はなかった。気難しすぎるのではないかという先入観は、走り出してすぐ消えた。
だが、そこで話は終わらない。ミウラは、たとえ進化バージョンのSVであっても、高い速度域では豹変するからだ。速度を上げていくと、低中速で感じた親しみやすさの奥から、別の顔が現れる。ステアリング、荷重、姿勢変化のすべてにごまかしがきかなくなるのだ。極めてシビアで、スリリングですらある。速く走らせるには、相当のテクニックと度胸が必要だ。
その理由は、ダラーラの設計思想にあった。ミウラのシャシーは本質的にレーシングカーの発想から生まれた。横置きV12ミッドシップという革命的なレイアウトは、ロードユースのための調律によって低中速では人を夢中にさせるものとなった。だがその半面、限界域に近づけば本質的な性格が顔を出す。優雅な造形の内側に、レーシングカーに近い緊張感が潜んでいたのだった。
この二面性こそ、ミウラを単なる美しい名車で終わらせなかった要因だろう。デザインだけでなく、危うさや未完成さまで含めて人を引きつける。それゆえに改良版のP400SやSVを生み、さらにはイオタという伝説にもつながっていく。
同時に、その栄光はランボルギーニに重い宿題を残した。ミウラはランボルギーニをスーパーカーの中心へ押し上げたが、その一方で、若いメーカーの体制や生産技術にはあまりにも大きな負荷を与えた。華やかさと危うさが、最初から同居していたのである。
フェルッチョがやがて自動車事業に距離を置いていったのも、無理のないことだった。トラクターに比べれば、自動車は手間がかかり、利益も読みにくい。ミウラのモデルライフのうちに、ピュアなランボルギーニの時代はひとつ完結していたのである。
ミウラとは何だったのか。それは若い技術者たちの理想主義と、イタリアンデザインの美意識と、フェルッチョの経営感覚とが、一度だけ鮮やかに交差した瞬間を切り取ったカタチだった。技術的には大胆で、造形的には優雅で、商業的には危うい。いってみれば「矛盾」を抱えたまま、ミウラは今日まで特別であり続けている。
