【クルマ物知り図鑑】傑作コンパクトカー、トヨタ・パブリカを救った夢多き1963年に誕生したコンバーチブルを知っていますか?

パブリカ コンバーチブルは1962年の第9回全日本自動車ショーに参考出品したパブリカ オープンの市販モデル。1963年10月21日から市販が始まった。当時の価格は2ドアセダンのデラックスモデルより6万円高い48万9000円。水平対向2気筒ユニットを搭載し、最高出力は36ps/5800rpmを発揮

パブリカ コンバーチブルは1962年の第9回全日本自動車ショーに参考出品したパブリカ オープンの市販モデル。1963年10月21日から市販が始まった。当時の価格は2ドアセダンのデラックスモデルより6万円高い48万9000円。水平対向2気筒ユニットを搭載し、最高出力は36ps/5800rpmを発揮

国民車構想から生まれたパブリカ

 1963年10月、トヨタはパブリカ・シリーズにソフトトップ仕様を加え、コンバーチブルの名で発売した。UP-10Sの形式名を持つこのコンバーチブルのデビューとセダンのデラックス化で、不振を続けていたパブリカの販売は一挙に70%も増加したといわれている。

リア

セダン

 パブリカは、1955年4月に当時の通商産業省(現在の経済産業省)が、自動車産業の振興を目的として造り上げた「国民車育成要綱案」を発表したことに対応して開発が始められたクルマだった。「国民車育成要綱案」という通達は、来るべき日本でのクルマ時代を予見し、日本の社会や国情に適したクルマの開発を各自動車メーカーに促そうとするもの。主な内容は、①最高速度100km/h。②乗車定員は4名(ないし乗員2名と積荷100kg以上が可能なこと)。③平坦路で60km/hで定速走行したときに、1リッター当たりの燃費は30km以上であること。④10万キロの走行が可能な耐久性を備えること。そして、月産2000台程度とした場合、販売価格は25万円以下であること。⑤エンジンの排気量は350~500㏄程度とすること。などという内容だった。これらの条件は、決して現在の軽自動車に当てはめたものではない。今からおよそ70年前の日本で決められたものなのである。

各社から登場した国民車たち

 「国民車育成要綱案」は、当時の日本の自動車メーカーにとって極めて厳しい内容だった。今日なら、リッター当たり30kmを走り、10万kmをノントラブルで走るクルマなど珍しくないが、1955年という時代では、それは絵空事に過ぎなかった。しかし、日本の自動車メーカーは厳しい条件にチャレンジした。その結果、出来上がったクルマが、1955年10月に発売された鈴木自動車工業(現スズキ)のスズライトSFであり、1958年5月に発売された富士重工(現SUBARU)のスバル360であり、1960年4月に発売された三菱500だった。そして、トヨタが完成させた「国民車」が1961年6月から発売されたパブリカだった。パブリカ(PUBLICA)という車名は、全国公募で1960年12月に決定された。応募数は100万通を超えた。PUBLICAとは、「国民」を意味するPublicと「クルマ」を意味するCarを併せた合成語である。

エンジンイラスト

レース

 パブリカは、トヨタのモデルレンジでは最も小型のモデルとなっていた。3ボックススタイルの4人乗り2ドアセダン1種のみで、排気量697㏄の空冷水平対向2気筒OHVエンジン(U型、出力28ps/4300rpm)をフロントに縦置きして、4速トランスミッションを介して後ろ2輪を駆動する。トヨタが軽自動車としなかったのは、性能的に余裕を持たせたかったことと、トヨタは軽自動車を造らないというポリシーがあったためと言われている。

販売低迷、起死回生の一手とは

 「国民車育成要綱案」を具体化する形で生まれたパブリカは、質素倹約を絵に描いたようなクルマとなった。ヨーロッパの「国民車」である、ドイツのVWビートルやフランスのシトローエン2CV、ルノー4CVなどと同様で、実用的なクルマとして必要十分ではあったが、派手さや豪華さとはおよそ無縁な存在だった。

 この合理的なクルマ造りは、現在でも通用する至極真っ当なものだった。だが、当時の日本のユーザーには理解されることはなかった。人々はクルマに大いなる夢を見、デラックス化を追い求めていたのである。パブリカの販売は早々に行き詰ってしまう。こうした深刻な販売不振の事態を打ち破った出来事が、ひとつは装備のデラックス化であり、もうひとつがコンバーチブルモデルのデビューだった。そして、パブリカは見事に甦る。

ハイアングル

 パブリカ コンバーチブルがシリーズに加えられたのは、パブリカというブランドにある種の高級感を与えるためだった。折り畳み可能なソフトトップを備えたコンバーチブル(日本で言うオープンカー)は、アメリカ車では実用的なクルマから、キャディラックやリンカーンなどの高級車に至るまで、かつては例外なくシリーズ化されており、クルマに夢を託す多くのユーザーにとって憧れの的であった。それは、単にオープンエアでのドライビングを楽しむということ以外に、そうしたスタイルのクルマを持てる余裕のある生活を感じさせるアイテムだったからである。

ツインキャブの高回転型エンジン搭載

 コンバーチブル仕様のパブリカは、2ドアセダンをベースにしてはいたが、ソフトトップ化に際して、ボディ各部の補強と性能向上のためのエンジン強化を行っていた。当時の日本では「オープンカー」は「スポーツカー」と同じ意味であり、標準型のセダンを超える性能を持っていなければならなかったのである。

ツインキャブエンジン

スタイル

 ボディ関係では、フロアパンのプレス型を変更して強度を上げ、左右ドア下部のシルを強化、さらに前部バルクヘッドなどの強度を増している。エンジン関係では、排気量こそ697㏄とセダン系と同じだが、圧縮比を7.2から8.0に上げ、カムシャフトを高速型に変更、キャブレターを2基装備するなどで、最高出力を28ps/4300rpmから36ps/5000rpmへと高めている。4速トランスミッションのギア比も変え、高速走行に適したものとしていた。サスペンションは前がウィッシュボーン、後ろがリジッドアクスルの半楕円リーフスプリングとセダン系に等しい。

上げ下ろしが容易なソフトトップ

 ソフトトップはリアウインドーと後部サイドウインドーが透明プラスチック製で、軽量ではあるが耐久性に劣る。トップ自体は防水加工を施したキャンバス製で、上げ下ろしは手動で行う。折り畳んだトップは後部座席とトランクの間にうまく収められ、後方視界を妨げることはない。その代わり、後部座席のスペースは若干犠牲になっている。販売価格は48万9000円で、標準型セダンより6万円高く設定されていた。

リア

トップ開閉

 1966年4月にパブリカ・シリーズはマイナーチェンジを実施、絶対的な性能向上のためエンジン排気量を790㏄に拡大(2U-C型、出力40ps/5000rpm)し、内外装を一新して「New パブリカ」として売り出した。コンバーチブルもトップの構造や素材が改良され、サイドウインドーを嵌め込み式にするなど耐候性を向上させた。エンジンも強化され、トップを脱着式の強化プラスチック製としたデタッチャブルトップなども現れた。大きな足跡を残した初代パブリカは、1969年3月新型の登場で生産を中止する。

トヨタ・パブリカ・コンバーチブル主要諸元

モデル=1963年パブリカ・コンバーチブル(UP10S型)
トランスミッション=4速MT(フロアシフト)
全長×全幅×全高=3585×1415×1335mm
ホイールベース=2130mm
トレッド=前1203/後1160mm
車重=625kg
エンジン=697cc空冷水平対向2気筒ツインキャブ (U-B型)
最高出力=36ps/5000rpm
最大トルク=5.7kg・m/4000rpm
最高速度=120km/h
サスペンション=前ウィッシュボーン/半楕円リーフ
ブレーキ=前後ドラム
タイヤ&ホイール=6.00-12-4PR+スチール
駆動方式=FR
乗車定員=4名

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