【名車の肖像】栄光のBMW M1はスポーツスピリットの結晶。波乱に満ちたその誕生ヒストリー

M1表紙

M1はBMWがFIA公認レースで勝利を収めることに狙いを定めて企画・開発されたMRスーパースポーツ。ランボルギーニやイタル・デザイン、ジャンパオロ・ダラーラなどのビッグネームが開発秘話に散りばめられている

BMW初の量産MRスーパースポーツは苦労の末に完成した

 BMWは昔からモータースポーツに積極的。ツーリングカーはもちろんフォーミュラカーなど、様々なカテゴリーで多くの勝利を挙げてきた。M1は、そのBMWのレース部門、BMWモータースポーツ(1972年設立、現M社)が送り出した初のスーパースポーツである。その誕生には紆余曲折があった。

 BMWモータースポーツは、1978年に新たな決断を行う。FIAが定めるグループ5規定マシンで行われる世界選手権のメイクス・チャンピオンシップへの本格参戦、そしてグループ4マシンによる挑戦である。それに伴い専用レースマシンの新規開発、さらにそのベースモデルの市販を決定する。スーパースポーツの開発コードは「E26」と名づけられた。

赤走り

 BMWモータースポーツはスーパースポーツの車両レイアウトとしてミッドシップ方式を決断する。しかし、BMWはこの分野のノウハウを持ち合わせていなかった。E26プロジェクトは、できるだけ早く、しかもスムーズに進める必要があった。そのため選んだのは、スーパースポーツの開発において優れた能力をもつランボルギーニとの提携だった。当時のランボルギーニは1973年に発生したオイルショックの影響を受け、経営状態は逼迫。設計部門や生産ラインは半ば開店休業の状態に陥っていた。せっかくの高い技術力を持て余していたのだ。新規のMRスーパースポーツの設計も、グループ5&グループ4マシンのベースとなる年間400台以上の市販モデルの生産も、ランボルギーニなら出来る、BMWモータースポーツはそう考えていた。

 BMWモータースポーツとランボルギーニによる共同プロジェクトは、当初順調な滑りだしを見せる。シャシー設計についてはランボルギーニと関係の深いジャンパオロ・ダラーラが担当。ボディについては、デザインと製作ともにジョルジエット・ジウジアーロ率いるイタル・デザインに任される。ジウジアーロは1972年発表のコンセプトカー「BMWターボ」のイメージを取り入れ、ミッドシップカーならではのシャープなフォルムと空力特性に優れるスタイリングを構築した。

デザインスケッチ

エンジン

 パワートレインは、BMWモータースポーツが手がけた。エンジンは量産型の“ビッグシックス”直列6気筒ユニットをベースにチェーン駆動の4バルブDOHCヘッドを組み込む。M88型を名乗る専用ユニットの排気量は3453cc、オイル潤滑機構にはドライサンプ方式を導入した。組み合わせるトランスミッションはZF製5速MTである。

 E26の試作車が完成したのは1977年夏。この流れを見たBMWモータースポーツは、1978年春に開催されるジュネーブ・ショーで完成車を披露する計画を立てた。しかし、結局ショーにE26は間に合わなかった。ランボルギーニの作業が遅々として進まなかったのである。どうにか完成したプロトタイプも、BMWモータースポーツが求めるクオリティには達していなかった。業を煮やしたBMW本体は、プロジェクトを推進するためにランボルギーニの買収を計画する。だがランボルギーニの下請け企業がこれに強く反発。結果としてBMWは、1978年4月にランボルギーニとの提携を解消することとした。

 暗礁に乗り上げたE26プロジェクト。しかし、BMWモータースポーツはあきらめなかった。生産工程を工夫し、E26を完成させたのだ。FRP製ボディはスタイリングを手がけた伊トリノのイタル・デザインが製作。シャシーについては独シュツットガルトのバウアー社に製造を委託する。そして、最終の仕上げを独ミュンヘンのBMWモータースポーツが行うという、複雑だが確実な手法をとった。

エンブレム

生産工程

 苦労の末に完成したE26は 「M」を意味する「M1」の車名を冠して、1978年秋開催のパリ・サロンでワールドプレミアを飾る。BMW初の本格ミッドシップスポーツで、しかもイタル・デザインとダラーラ、そしてBMWモータースポーツというスターがタッグを組んだだけに、M1はたちまちショーの花形となった。

 市販バージョンのM1は、スーパースポーツとして異例の実用性を備えていた。エアコンやパワーウィンドウといった快適アイテムを標準装備。M88エンジンの最高出力はロードバージョンが277hp/6500rpm。レース用のグループ4仕様は470hp/9000rpmを絞り出す。さらにグループ5仕様は排気量を3153ccとしたうえでKKKターボチャージャーを組み合わせた結果、最高で850hp/9000rpmを発揮した。最高速度はロードバージョンが262km/h、グループ4仕様が310km/h、グループ5仕様が360km/hと公表された。

 M1は素晴らしいクルマだった。しかし、販売台数は伸び悩んだ。複雑な生産工程は割高な車両価格(ポルシェ911の倍近い11万3000マルク)につながり、しかもBMWモータースポーツ本体がF1用エンジンの新規開発と製造に追われていたために月3台ほど生産するのがやっとだったからだ。このままでは、グループ4マシンの規定である「ベースとなる市販モデルを連続12カ月に400台の生産」という規定をクリアすることは困難だった。打開策としてBMWモータースポーツは、シャシー製造を担っていたバウアー社に最終工程の一部も委託する。また、M1のハイパフォーマンスを証明するため、ワンメイクの「プロカー・レース」を開催することとした。このレースは、市場での人気の引き上げも意図していた。

2台並び

プロカー

 様々な努力もあって、M1の生産台数は1980年暮れにどうにか400台をクリアする。FIAは特別に1981年以降のグループ4公認をM1に与えた。その後のM1は、世界各地のレースやラリーに参戦。日本でもスピードスター・チームがレーシング仕様のM1を購入して耐久レースなどに出場。その後オートビューレック・チームがスーパーシルエット・シリーズを制覇するなど大活躍を果たした。1981年まで4年間のモデルライフにおける生産台数は、453台(一説には447台)だった。

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