【岡崎宏司のカーズCARS】日本が世界に誇る「GT-R」。このクルマと深くかかわれたのは、ボクの勲章になっている!

現行R35型は「スカイライン」の名称を捨て、日産のシンボルとして「GT-R」単独ネームで登場。3.8リッター・V6ツインターボと世界初の独立型トランスアクスル式プレミアム・ミッドシップパッケージで世界最高峰のポフォーマンスを追求。凄みと存在感が強いスタイリングでも話題を呼ぶ。当初の最高出力は480ps。GT-Rは積極的な改良・熟成で完成度を高め、現在でも世界トップの速さを誇るスーパースポーツの1台になっている

現行R35型は「スカイライン」の名称を捨て、日産のシンボルとして「GT-R」単独ネームで登場。3.8リッター・V6ツインターボと世界初の独立型トランスアクスル式プレミアム・ミッドシップパッケージで世界最高峰のポフォーマンスを追求。凄みと存在感が強いスタイリングでも話題を呼ぶ。当初の最高出力は480ps。GT-Rは積極的な改良・熟成で完成度を高め、現在でも世界トップの速さを誇るスーパースポーツの1台になっている

OKAZAKI’s MOTORING ESSAY

 ポルシェに勝つために誕生したレーシングカー、日産R380。そのエンジンをベースにした直6DOHCをスカイラインに積む。そこからGT-Rの歴史は始まった。1969年のことだ。

 以後2002年まで5世代にわたって「スカイラインGT-R」を名乗り、伝統を継承。だが、2007年に誕生した新世代GT-Rにスカイラインの名はなく、すべてが一新された。いや、ひとつだけ変わらないものがあった。それは「日産の象徴」という立ち位置である。
 そんな栄光の「GT-R」に、ボクはさまざまな形でかかわってきた。

ハコスカ

 初代と2代目GT-Rでは、開発現場に足を運ぶ機会はなかった。だが、開発を率いた桜井真一郎さんとはよく意見交換をした。そして、いつも話は弾んだ。
 初代GT-Rのゼロヨン公式タイムは16.0秒。ボクのテストでは15.5秒をマークした。桜井さんがとても喜んでくれたことを覚えている。桜井さんとボクの対談形式の単行本も出ている。タイトルは『クルマ・ハート・スカG』(グランプリ出版刊)。ボクの宝物のひとつだ。

 3代目以降のGT-Rには開発面でも多くの関わりを持った。とくにR32型(3代目)は、テストコース/ニュルブルクリンク/アウトバーンなど多くの場で走り込み、開発メンバーと熱いディスカッションを繰り返した。当時、日産は「901活動」(1990年代に技術力世界一を目指す活動)を行っていた。その先頭を担ったのがGT-Rだった。それだけに、開発メンバーにも錚々たる顔ぶれが揃っていた。

R32

 R32型はすごいクルマに仕上がった。とくに、高速スタビリティは「強烈!」で、「未体験ゾーン」に入るものだった。

 テストコースでその凄さは重々わかっていたものの、初めてアウトバーンを走った時は改めて強い衝撃を受けた。200km/hオーバーでの、激しい緊急回避操作にビクともしない。そして、ニュルブルクリンクでは、試練の後、市販車最速タイムをあっさりと、それも大幅に更新した。
 GT-Rは、テストの一環で「箱根の一部区間を貸し切って」のテストも行った。タイトなターンが連続する箱根路でもまた、「未体験ゾーン」の速さを叩き出した。

R35

 2002年でR34型の生産が終了してほぼ5年後。2007年に誕生したのがR35型だ。先に触れたようにR34型までとのメカニズム上の関連はない。 

 すべてがゼロからスタートした。うれしいことに、ここでもまた開発に携わるオファーが来た。
 R35型の異次元の速さについて行くのは大変だった。しかし貴重な体験だった。GT-R初の「アウトバーンでの300km/h超え」への挑戦もいい思い出になっている。
 そして、開発の総仕上げには、LAのロデオドライブから、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジまで走った。速さだけでなく、快適性も確かめるために。

 GT-Rは「日本の名車」だ。GT-Rに長く深くかかわり続けられたことは、名誉以外の何ものでもない。

【プロフィール】おかざき こうじ/モータージャーナリスト、1940年、東京都生まれ。日本大学芸術学部在学中から国内ラリーに参戦し、卒業後、雑誌編集者を経てフリーランスに。本誌では創刊時からメインライターとして活躍。その的確な評価とドライビングスキルには定評がある。AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員

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