1955年、初代クラウンのデビューは衝撃だった。それまでの日本の乗用車は「トラック改」のレベルでしかなかった。当時の乗用車の代表だったタクシーのドライバーは腰椎サポートベルトを巻き、過酷な仕事に耐えていた。
そんな状況を、クラウンは一変させた。ちなみに日比谷公園で開催された「全日本自動車ショウ」(東京モーターショーの前身)は1954年に始まった。僕は兄(9歳年上)に連れられて見に行った。1954 年に展示された乗用車で乗用車らしかったのは、オースチン(日産)、ルノー(日野)、ヒルマン(いすゞ)など、海外モデルのノックダウン生産車だけ。日本車はトラックとオートバイ(海外車のコピーも多かった)がほとんどだった。
ところが翌1955年、黒山の人だかりができた。それも純国産車の前にである。「初代クラウン」が誕生したのだ。
ボクはまだ15歳だった。「日本でも真っ当な乗用車が作れるようになったんだ!」と心が弾んだ。そして、兄と父に「クラウンのタクシーがでたら乗せてね!」と強くねだったことを覚えている。
クラウンのタクシーに乗りたいという願いは、すぐに叶えられた。何度か乗せてもらったアメリカ車のハイヤーに近い、柔らかい乗り心地だった。もはや「トラック改」ではない。外観や内装もまた同じだった。ピラーは細く、ガラス面積は大きく、線も面も優しく、床も低くかった。乗るとホッとしたものだ。
それまでの日本製乗用車は、乗ると自然に身構えるというか、身体が強張るような感覚が付きまとった。だが、クラウンは違った。
以来67年、クラウンは、日本市場をメインに「成功者が乗るクルマ」、「成功を夢見る人たちの憧れのクルマ」として成長し、進化し、君臨してきた。
ボクはコンパクト派である。大きく立派なクルマは、ほんの数台しか所有したことがない。そんな僕が気に入って買ったクラウンがある。1971年にデビューした4代目クラウン。俗称「クジラ」と呼ばれたモデルだ。なぜクジラなのか、ボクにはピンとこない。
スピンドルシェイプと呼ばれた空力的フォルム、ボディと同色のビルトイン式カラードバンパー、進歩的であり、ボクの目にはとてもカッコよく映った。
ボクはモスグリーンの2ドアハードトップを買った。「エレガンツ クラウン」、「世界が見つめる」というキャッチコピーも斬新だった。「クラウンも、ようやくグローバルに目を向け始めたか!」と嬉しかった。
だが、保守派の抵抗は強く販売は苦戦。中でも、法人需要と営業車需要は急下降した。結果、セドリック/グロリア連合に敗北。再び保守路線に回帰せざるを得なかった。
あれからほぼ半世紀、最新クラウンの新たなチャレンジは、かつての4代目クラウンに重なるところがある。
ボクはこの挑戦に大賛成だし、成功を願っている。世界の道を世界の人たちと走るクラウン。早くそんな光景を見たいものだ。
おかざき こうじ/モータージャーナリスト 1940年、東京都生まれ。日本大学芸術学部在学中から国内ラリーに参戦し、卒業後、雑誌編集者を経て、フリーランスに。カー・アンド・ドライバー誌では創刊時からメインライターとして活躍。その的確な評価とドライビングスキルには定評がある。AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員