朝日新聞の名物コラム、天声人語を約2000回にわたって担当した栗田亘さんの連載エッセイ。世界各地を旅して感じた、歴史、風土、景色などに関する興味深い話題で構成。台湾周遊エッセイの3回目
台湾周遊 その3
▲赤嵌楼はもともとオランダが建設したプロビンシャ城だった 鄭成功がオランダ軍を撃破すると〝東都承天府〟と改められて最高行政機関となった 破壊と改修の繰り返しでオランダ時代の痕跡はほとんどない
台北駅構内の観光案内所で、ボクは、日本では手に入らない大判にして詳細な日本語版の「台湾全エリアガイドマップ」をもらった。発行は交通部観光局。日本でいえば国土交通省観光庁というところか。
まことに便利で、旅のあいだ何かと世話になった。たとえば〈いざと言う時の連絡先〉には「緊急通報電話110」「救急電話119」と記してある。なんだ、日本と同じなんだ。と、なにがしかの安心感とともに、これも日本の影響かしら、との思いもす。
マップを眺めていると、台北に始まって、とくに東海岸に、湯船から湯気ゆらゆらの温泉マークがかなり多いのに気づく。そう台湾本島は火山島なのだ。
ボクらのツアーは、東海岸の北回帰線よりも少し南寄りの、台湾屈指の温泉郷である温泉に2泊した。
原住民プユマ族は古くからこの温泉の薬効を知っていたといわれるが、本格的に開発したのは温泉好きの日本人である。統治時代、台湾総督府が音頭を取って公衆浴場を設け、「台湾東部一の美景」のキャッチフレーズで売り出した。
最寄り駅・知本から10キロ弱。温泉に近づくと、水着や浮き輪を売っている商店が目に付く。温泉は水着着用がルールなのだ。
渓谷に沿ってホテルが建ち並ぶ。水着はフロントでも買える。ただし「日式」の浴場では、日本式の水着なし入浴が可能。ボクも、慣れた「日式」を利用した。
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旅の4日目の朝、温泉を後に知本駅から台湾一周鉄道の南廻線と呼ばれる路線に乗った。特急「自強号」で市へ。そこで昼食ののち、バスでさらに北の市に向かう。
ネットに、台湾の主要都市を日本の都市になぞらえた記事が載っていた。それによると、首都・台北を東京とすれば、高雄は横浜、台南は京都に雰囲気が似ているという。
高雄はアジア有数の港湾都市だ。港にはコンテナ船が行き交い、台湾の貿易と経済のカナメであることを印象づける。なるほど横浜かもしれない。
台南は、歴史ある街という点では、まあ京都だろうか。約400年前、最初に台湾を支配したオランダ人が築いたゼーランジャ城(現在の安平古塁(アンビィンウバオ)やプロビンシャ城(現在の赤嵌楼(チィカンロウ)など、旧跡が市内にある。
ほかに儒学の祖を祭った台湾最古の、三国志の武将・関羽を神として祭った台湾関帝廟の総本山・、海の安全や安産の神・を祭った(台南大媽祖廟)など、信仰の場であり観光の対象でもある廟が点在する。
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ヨーロッパでは台湾を「フォルモサ」と呼んだ。いまも、そう呼ぶ人もいる。
1544年、帆船から台湾を遠望したポルトガル人がIlha Formosas(麗しの島)と叫んだのが始まりだ。これに「美麗島」と漢字を充てた表記が20世紀後半から使われるようになり、いま、台湾の美称、自称となっている。
大航海時代。それは15世紀から17世紀初めにかけポルトガル、スペインなど西欧諸国が帆船によって新航路、新大陸を開拓していった時代だ。バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、コロンブスがアメリカ大陸に到達し、マゼランが世界一周航海に成功し、非ヨーロッパ地域の植民地化がひろがった時代である。
1624年、オランダは台湾西海岸の南に上陸しゼーランジャ城を築いた。1626年、スペインは西海岸の北にサン・サルバドル城を築いた。いまの基隆(ジーロン)の辺りだ。
台湾が外来勢力によって統治された始まりである。
1642年、オランダはスペインを駆逐し、唯一の植民地政権として君臨することになった。
ゼーランジャ城が建つ半島の対岸には、大陸から渡ってきた漢人の居留地があったが、オランダはここにプロビンシャ城を建造した。
日本でいえば徳川幕府三代将軍家光の頃。参勤交代が制度化され、『好色一代男』を書いた井原西鶴が生まれ、しばらく後には人形浄瑠璃(文楽)、歌舞伎作者の近松門左衛門が生まれる。そういう時代だった。
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浄瑠璃『国性爺合戦(こくせんやがっせん)』は近松が書いた。中国・明(みん)代の末期、日本に亡命した海商、鄭芝竜(ていしりゅう)の子・和藤内(わとうない、国性爺)が、明朝の再興を図るという、実話を下敷きにした筋。1715年初演、17カ月に及ぶロングランの記録を作った。
劇中の和藤内は、本名を鄭成功(ていせいこう)という。亡命した鄭芝竜と肥前・平戸(長崎県北部)の田川七左衛門の娘マツとのあいだに生まれた。7歳で明に渡る。明が清(しん)によって滅亡(1644年)させられた後、明の残存勢力は清への抵抗を繰り返した。鄭成功もその一翼を担い、反攻の拠点とするために1661年、軍勢を率いて台湾に渡る。
翌年ゼーランジャ城に立てこもったオランダ軍を破り、プロビンシャ城を台湾統治の礎とした。漢民族が台湾を制した始まりである。
鄭氏政権は台湾を開拓するために、積極的に大陸からの漢人移民を進めた。オランダ時代末期に3.5万〜5万だった漢人人口は、鄭氏の明時代になると12万〜20万人に増え、原住民人口と同等か、上回るようになった。
しかし鄭成功は、オランダを制覇してまもなく病没。わずか38歳だった。その子が継いだが、1683年には清朝に帰順し、鄭氏政権は23年で終わった。
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ボクらはかつてプロビンシャ城だった赤嵌楼、ゼーランジャ城だった安平古塁、媽祖を祭った大天后宮を順に訪ねた。
鄭成功は、明、清と続いた漢人による台湾統治の始祖としてずっと尊敬を集めている。国家一級史跡に指定されている赤嵌楼の前庭には、鄭成功と和議を結ぶオランダ軍指揮官の像が置かれている。
1980年、地元のライオンズクラブが「鄭成功受降図」として建立した。最初はオランダ人がひざまずいていたが、訪問したオランダの議員が抗議。オランダ人が立っている「議和図」として作り直されたというである。
▲台南市・安平古塁近くの繁華街・延平街は夕方になると地元の人や観光客で押すな押すなの状態 昔なつかしいカルメ焼き(砂糖菓子)を子供たちに試させている