【サマーバカンス特集】ノルウェーはムンクとグリーグの出身国/スカンジナビア3

名コラムニスト、栗田亘さんのスカンジナビア紀行、その3。ノルウェー西部の都市、ベルゲンに移動。この町は音楽家、エドヴァルド・グリーグの旧居で有名。グリーグはどのような暮らしの中で名作『ピアノ協奏曲イ短調』などを創作したのか。現在はグリーグ博物館になっている旧居を訪ねた。

北欧の素晴らしい芸術家

グリーグの邸宅.jpg

 トロルは、古くから北欧各国で出没してきた妖精だ。姿かたちやキャラクターは国によって微妙に異なるけれど、活躍の度合いはとくにノルウェーで際立っている。

 もともとは毛むくじゃらの巨人だったが、やがて背丈が低くなり、しかも変幻自在だから子供、老人、女性、男性などなんでもござれ、変身する。

 ボクらが滞在した港町ベルゲンの土産物店ではたいてい、身長1メートルほどの醜い老人姿の客寄せトロル人形が店先に置かれていた。でも観光客に人気があるのは、スキーヤーやヴァイキング姿の愛嬌たっぷりな小さな人形。陶製、縫いぐるみ、マグネットなど種類豊富。ただし鼻と耳がバカでかいというトロル共通の特徴はしっかり備えている。

 ベルゲン滞在中のある日、ボクたちはトロルハルゲンを訪ねた。トロルハルゲン=妖精トロルの丘。ベルゲン郊外にある作曲家グリーグ(またはグリーク)の旧居、現在はグリーグ博物館の別称だ。

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 エドヴァルド・グリーグ。クラシック好きなら、それだけでわかる。ボクみたいにクラシック適当に好き人間だと、彼の曲をちょっと再生してもらって初めて、あ、よく知ってると膝を叩く。

 たとえば『ピアノ協奏曲イ短調』。1868年、25歳の若きグリーグが書き上げた名曲である。滝がフィヨルドに落ち込むようなピアノの独奏で始まる印象的な第1楽章を聴けば、多くの人が、あ、あれか、と言うはずだ。

 ノルウェーの生んだ名高い劇作家イプセンの戯曲のために作曲した『ペール・ギュント』(1875年)。このうちの数曲は日本でも1890年代(明治23年以降)から演奏された。

 第4幕の『朝の気分』。ノルウェー民謡風の素朴なメロディーで始まり、最後は大河のように朗々と奏でられる。これもボクの記憶にある旋律。そして第5幕最後の『ソルヴェーグの歌』は、そうだ、高校の音楽の時間に習ったと、かなりの人が思い出すに違いない。

 グリーグは1843年ベルゲンで生まれた。父はスコットランド系の商人。母はハンブルクに留学経験のあるベルゲン一のピアノ教師だった。15歳のときドイツのライプチヒ音楽院に留学。さらに当時の北欧文化の中心地コペンハーゲンで、のちに妻となる従妹でソプラノ歌手のニーナと出会う。

 すでに名声を得ていた1885年、グリーグはベルゲンの南、深く入り組んだフィヨルドを見下ろす丘の上にヴィクトリア朝風の白い家を建てた。妻ニーナはそこをトロルハルゲンと名付ける。

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 母屋から急な坂道を2、3分下りると、小さな「作曲小屋」がある。フィヨルドに面した大きな窓。その手前の机で、グリーグは作曲に勤しんだ。『抒情小曲集』などのピアノ曲や多くの歌曲がここで生まれた。

 一日の仕事を終えるとグリーグは、いつも楽譜の上のほうに記したという。〈強盗に入られたら、楽譜だけは持って行かないでくれ、と頼もう。この楽譜は私以外の人間には何の価値もないものだから〉

 グリーグは、小さなカエルの置物と子豚の縫いぐるみを寝るときも離さないほど大切にしていた。演奏会で指揮をするときは、上がらないように、ポケットの中のカエルの置物をそっと握りしめたそうだ。

 彼はとても小柄だった。17歳のときにはひどい肋膜炎に冒され、肺を傷めて、1907年に没するまで終生、呼吸器疾患に悩まされた。陽気でざっくばらんな性格だったけれど、子供っぽい一面もあったようだ。もちろんトロルも大好きだった。

グリーグの銅像.jpg▲トロルハルゲンにあるグリーグの像 同じ像は彼が生まれ育ったベルゲン市内中心部の公園にもある

 旧居の手前に建てられた博物館には、子豚の縫いぐるみ、カエルの置物が3段のガラスケースの下2段に展示されている。いちばん上の段に置かれているのは少年の姿のトロルの縫いぐるみだ。ほぼ同じものが売店にあって、ボクも入手した。いま、拙宅のテレビの前に座っている。

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 音楽家の代表がグリーグなら、画家はムンクだろう。『叫び』の連作は、人類の貴重な財産だ。

 グリーグと同じく、日本で紹介された時期は早い。1911年(明治44年)、作家武者小路実篤はゴーギャン、ゴッホと並ぶ画家としてムンクを同人誌『白樺』で紹介した。

 ムンクの名前は、グリーグと同じエドヴァルド。1863年ノルウェーの田舎に生まれ、1歳でクリスチャニア(のちオスロと改名)に移る。父は軍医、母は結核のためムンクが5歳のとき死去。14歳のとき、年子の姉も結核で亡くなった。ふたりの病と死は、ムンクの画風に少なからぬ影響を及ぼした。

 ムンクの絵をボクと連れ合いはベルゲンのKODE(コーデー)と呼ばれる北欧第一級の美術館で観た。2013年にベルゲン美術館と西ノルウェー工芸博物館が統合したもので、きれいな湖のほとりに位置する。

 ルネサンスから現代に到る絵画、彫刻などを幅広く収蔵、KODE1~4の4つの建物に分かれている。ムンクの作品はそのうちKODE3でまとめて展示されていた。

 ムンクとベルゲンに繋がりはない。作品の多くはオスロの美術館にある。KODE3に『叫び』は一点もない。けれども初期から晩年までの幅広い作品と向き合うことができ、ボクは十分に満足した。

 KODE3の『カール・ヨハン通りの夕べ』(1892年)には、同じ年の『絶望』(オスロ・ムンク美術館)や翌年の『叫び』(オスロ国立美術館)などに通じる不安、恐れ、狂気がにじむ。〈全身が震え、汗が噴き出してきた。彼はよろめいた。僕は倒れてしまう。人びとが立ち止まる〉と、ムンクは日記に書いた。

 一方で『クリニックでの自画像』(1909年)における穏やかで冷静な筆の運び。コペンハーゲンで精神神経科の治療をうけていた当時の作品だ。自らの「狂気」を一つの症例として冷厳に分析するムンクがここにいる。

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 最後にグリーグに戻る。前号、雄大な滝の岩場で踊る「赤い妖精」に合わせ大音量の音楽が流れたと記した。あれは、もしかすると、グリーグの曲だったのかしら。

グリーグの地図.png▲ノルウェー王国:面積は38万6000㎢、人口は525万8000人(2018年1月)。首都はオスロ、言語はノルウェー語。1905年、スウェーデンとの同君連合を解消して独立。政体は立憲君主制で、元首はハロルド5世国王。EUは非加盟だが、EUとの経済関係は緊密である(外務省のデータから)

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