【岡崎宏司カーズCARS】モーターショーは「モータリーゼーションの縮図」。日本では1954年に第1回を開催。ボクは70年前にワクワクした!

ジャパンモビリティショーの前身となる東京モーターショーは1954年に初開催。当時の正式名称は「全日本自動車ショウ」。東京・日比谷公園内の広場で開催され展示車両は267台。乗用車はわずか17台だった

ジャパンモビリティショーの前身となる東京モーターショーは1954年に初開催。当時の正式名称は「全日本自動車ショウ」。東京・日比谷公園内の広場で開催され展示車両は267台。乗用車はわずか17台だった

70年前の日本はトラックとオートバイが主役だった

 2019年以来、4年ぶりに開催されたモーターショー。「TOKYO MOTOR SHOW」から「JAPAN MOBILITY SHOW」に名称を変え、新たなステップを踏み出した。JMS 2023はその名のとおり、自動車業界だけではなく、「現在と未来の移動」にかかわるすべての産業やスタートアップが参加するイベントへと大きく舵を切った。
 JMSの会場へ足を運んだ人は、近い将来を含めた「未来のモビリティ」のイメージを、肌感覚で感じ取ったはずだ。

マツダ

日産

 各種のJMS報告は、メディアだけではなく、SNSなどでも多くを見ることができる。ここでは、ほぼ70年前に時を戻し、初期のモーターショーを振り返ってみることにする。

「第1回全日本自動車ショウ」は1954年に開催された。「全日本」や「ショウ」という名付けは、いま見るといかにも古い。
 ちなみに「ショウ」が「ショー」に変わったのは1959年の第6回から。全日本自動車ショーから東京モーターショーへの切り替えは、時間をかけて行われた。

 ボクは第1回から見ている。14歳のとき、兄に連れられて行った。会場は日比谷公園広場だった。記録を見ると、254社が参加、展示車両は267台。だが、その内、乗用車はわずか17台だけ。出展車のほとんどはトラックとオートバイだったということになる。それでもボクは、ワクワクした一日を過ごしたはずだ。
 10日間の会期中の観客は54万7000人と記録されている。かなり混雑していたのは肌感覚で覚えている。1950年代半ばにはすでに、多くの人たちが「クルマに憧れ、クルマがほしい」と思っていたということだろう。

クラウン

ダットサン

 1955年開催の第2回は、トヨタがクラウンとマスターを、日産は110型ダットサンをデビューさせた。それだけでも盛り上がった。
 そして、ダットサン110型は、わが家初の「自家用車」になった。納車された日は、うれしくてうれしくて、庭に駐めた車中で一夜を過ごした。母が心配して何度も見にきたが、そんなことはお構いなしだった。

1956年

 1959年の第6回から会場が晴海の日本貿易センターに移り、ここから、本格的なモーターショーへと発展していく。展示車は大幅に増え、天候に関わらずゆっくり楽しむことができるようにもなった。展示ブースの照明や飾り付けも豪華になり、クルマだけでなく、「ショー全体が楽しめる」ものへと移行していった。

 1963年の第10回から、TOKYO MOTOR SHOWの名が大きく前面にでるようになり、翌1964年から名称を東京モーターショーに変更。海外メーカーも参加するようになった。以後、日本自動車産業の進化と躍進と歩調を合わせ、東京モーターショーは発展を続けた。そして、世界の主要モーターショーのひとつへと上りつめていく。

セリカ

 モーターショーはある種「モータリゼーションの縮図的なもの」。モーターショーからモビリティショーへと名を変えたJMS 2023は、今、クルマが、そして「移動という概念」が、新たなステップを踏む変革期の節目にあることを示している。

【プロフィール】
おかざき こうじ/モータージャーナリスト、1940年、東京都生まれ。日本大学芸術学部在学中から国内ラリーに参戦し、卒業後、雑誌編集者を経てフリーランスに。本誌では創刊時からメインライターとして活躍。その的確な評価とドライビングスキルには定評がある。AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員

 

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