アレック・イシゴニス物語第1回

小型車の歴史を変えた偉大な技術者の少年時代

 話はエーゲ海からはじまる。それは、世界旅行のガイドブックにあるような、まっ青な海、白い町というロマンいっぱいの多島海がそこにあるからではない。主人公のアレック・イシゴニスが、エーゲ海に面したトルコの、イズミールと呼ばれる港湾都市に生まれたからである。

damImage.narrow.560w.j_1531820201273.jpg▲アレック・イシゴニス(1906〜88年) 

 世界地図をひろげて中東の海を見てみよう。ヨーロッパとアジアは、地中海の東端で、ダーダネルス海峡をはさんで接している。西から来た旅人は、ギリシャはヨーロッパ文明の東端であり、東からきた旅人は、トルコこそアジア文明の西の端だと思うに違いない。エーゲ海は、そのふたつの文明の接点なのだ。

 西側はキリスト教の世界であり、東側はイスラム教の支配下にあって、ふたつの文明はたえずぶつかり合い、ふたつの教養はつねに激しく争ってきたと、歴史は教えている。

 ミニを創案したイシゴニスは、この接点の地に生まれたばかりに不幸な少年時代をすごすとともに、戦争が運んできたいろいろな「兵器」にもめぐり合った。

 アレック・イシゴニスは、1906年、当時はスミルナと呼ばれたイズミールに生まれた。父親はギリシャ系イギリス人でボイラー製造業を営み、母親は裕福なドイツ系ババリア婦人だった。アレックはアレキサンダーにちなむ名前であろう。そのころ、彼が生まれた土地からあまり遠くない島では、未来の船舶億万長者アリストートル・オナシス(1906〜75年)が誕生している。

赤いミニメイン001.jpg▲1959〜67年に生産されたモデルは「マーク1」と総称される 写真はモーリス・ミニ・マイナー オースチン・セブンとはフロントグリルの形状とエンブレムなどが異なる

 1920年代のトルコは、第一次世界大戦をドイツに与して戦ったから、対戦国イギリス人の子どもとして、少年イシゴニスは苦労の多い日常を送ったらしい。

「イシゴニスは、物心のつく時代を家の中に閉じこもって暮らし、大戦中はドイツ軍の《捕虜》のようにすごした。ボイラー業者の父親は、商売上、ドイツ軍から地中海潜水艦の修理を命じられたものの、その申し出を拒否したため、当然の仕返しとして工場を没収されてしまう。しかし、母方の伯母が運よくイタリア人と結婚していたために、全家族が彼女の細い《政治的中立》の傘の下にかくれることができた」と、伝記記者が綴っているような生活を強いられた。

 それでも、そのころの戦争には、どこか牧歌的なところがあった。イギリス軍のファルマン複葉機が飛んできて、爆弾を手投げ式で落としていくと、ドイツ軍のフォッカー戦闘機が舞い上がって迎え撃つという空の「戦争ごっこ」を、イシゴニス少年は憧れるような目つきで見上げていた。

 そして、少年イシゴニスは、軍用車としてスミルナにやってきた当時のT型フォードの力強さに見惚れてしまうのである。そのときから、彼の心に「自動車」がはっきりと焼きつけられてしまうのだ。

P0031423.jpg▲イシゴニスがミニを開発する際に描いたスケッチ

 かつて、テレビでNHKが「ジュニア文化シリーズ」の一篇として、「わが青春時代――本田宗一郎」を放映したが、実によく似たシーンが紹介されていた。というのは、宗一郎少年は東京に職を求めて父親に連れられて静岡県(当時の磐田郡光明村、現在は浜松市)から上京するのだが、東京駅に降りたとき、駅前に駐車していたT型フォードをはじめて見て狂喜、感激するからだ。まさに同時代だったのだ。

 テレビの画面を見ながら、ボクの目玉の中で二人の少年像が二重写しになる。宗一郎少年は16歳、田舎の高等小学校を出て、東京の自動車修理工場の丁稚に雇われていく(1922年)。

 イシゴニス少年もまた、学校へ行けない15歳(1921年)の日々を、走り去る飛行機や自動車を見て、胸をおどらせながらすごしていた。

 少年時代を描いた二人の伝記では、少年たちにとって油のにおい、ガソリンの香りがどんなに素晴らしかったか、エンジンのうなりがどれほど楽しいものだったのか、同じような筆致で書かれている。

 1918年、大戦は終わった。しかし、こんどはギリシャ対トルコの戦争がはじまった。1920年代のことである。歴史の本はこんなふうに解説する。

P90045998_highRes_alec-issigonis-with-.jpg▲BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション/1952年)時代のイシゴニスが開発した小型車「オースチン・セブン」と「モーリス・ミニ・マイナー」が後にミニと呼ばれる

「第1次大戦でドイツ側についたトルコはみじめに敗れた。そしてトルコの戦後に、ムスタファ・ケマルに率いられた民族主義運動の波が大きく盛り上がった。戦勝国イギリス・フランス連合の援助を受けたギリシャ軍2万が、スミルナ市(イズミール)を占領するに及んで、トルコ民族軍は抵抗のために決起した。戦いは激しくつづき、1922年8月、トルコ軍はついにスミルナ市を奪回し、燃える街の中で、同市人口の半ばを占めていたギリシャ人を大虐殺した」と。

 つい、昨日までは戦勝国の市民だった地位がたちまち逆転して、スミルナに住むイシゴニス一家には危険が訪れる。ギリシャ系イギリス人だった一家は、命からがら、イギリス軍艦に乗ってマルタ島へ逃げ出す破目になった。

「イシゴニス少年は15歳になったときも学校へ通えなかったため、スミルナではイギリス人社会が作っていた家庭教師グループについて学ぶより仕方なかった。母親は、若い者の将来を考えて、イギリスでの教育が必要と思ったのであろう、1923年、17歳になったイシゴニスをロンドンへ連れていき、バターシー工業技術学校へ入学させた。このときの3年間の修業が、少年のあとあとの基礎になったのであった。しかし、少年は、教科書からは何も学ぶことはできない、自分自身でやってみなければ駄目なのだと、本能的に悟ったのだった」と伝記記者は記している。

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