ポルシェ父子物語 第4回「第2次大戦後、ついに博士の悲願だった国民車の生産がスタートする」

第2次大戦後、ついに博士の悲願だった国民車の生産がスタートする

 また『Porsche―TheManandhis Cars』という本には、ファミリーがグミュントに帰ったところをこう書いている。「暗い日々、二人のフランス人、一人のイタリア人が力になった。レイモンド・ソマー(仏グランプリ・ドライバー)、シャルル・ファロウ(仏モーター・ジャーナリスト)、そしてピエロ・ドゥシオ(伊企業家)たちが良き連中だ」と。

 ここから、高性能スポーツカー、ポルシェの新しい進撃がはじまる。ウォルフスブルクが老ポルシェ博士の檜舞台だったとするならば、このグミュントこそ、若きフェリーと名車ポルシェの記念堂といえるだろう。  もしも、この高地の村へポルシェ一家が戦火を避けて設計事務所を移さなかったならば、そして、この地が戦後のポルシェ356の誕生の地にならなかったなら、グミュントの名は誰にも知られずじまいだったに違いない。

S11_0156_fine.jpg▲1922年のタルガフローリオに出場したサッシャ 1.1リッターエンジンを搭載

「カール・ラーベ(ポルシェ博士の生涯の協力者)の指揮でグミュントでの作業が再開される。1946年、フェリーが帰ってきて仲間に加わり、ウィンチ機械を製作したり、自動2輪の修理を引き受けたりした。だが、その日暮らしだった。1947年夏、ポルシェ博士は釈放されて帰郷すると事情は一変。早速、スポーツ・カー、チシタリアの設計に取り組む。フェリーも、かつてのポルシェ・チームも、みんなが心を合わせて博士の思いどおりの仕事を進めるのだった」

 伝記作者は、そのような記述の後に、最初のポルシェ356が50台、すべて手づくりで完成されたことを紹介する。

S09_0052_a4.jpg▲ポルシェ356(左)とVWタイプ60(ビートル) 中央はフェリー・ポルシェ ポルシェ親子の努力と熱意がRR方式の世界的なスポーツカーと国民車が生まれた原動力になっていたことは間違いない 撮影は1958年

 フェリー・ポルシェは40歳になっていた。父親がそうであったように、グミュントで試作車を完成させると、シュツットガルトに移転。後に続く356の量産タイプの生産を開始する。10月のパリ・モーターショーでは、マクシミリアンEホフマンと出会い、アメリカ進出が決定。業界に話題をまく。

 父親も40代には数々の業績を打ち立てたものだ。C=ZUG(ツェー・ツーク)という連結式軍用トラクターを発明したのは40歳、サッシャ(1.1リッター/40psユニット搭載)と愛称のついた小型車でタルガ・フローリオ(1922年)で優勝したのは48歳だ。この小型車こそVWの根源的なルーツだとの説がある。  フェリーはすでに病床にあった父親に昔話をする。

DB2019AL02217_overfull.jpg▲1946年3月に生産された1000台目のVWビートルのラインオフを祝うセレモニー 

「あなたはぼくのために、オーストロ・ダイムラーの車体を縮めて、空冷2気筒エンジンのクルマを作ってくれましたね。フォードT型と同じ2段ギアでした。いとこのジスレーヌ・アエスと乗りました。覚えていますか?

 老ポルシェ博士は目を閉じたままだ。

「21歳になったころ、あなたの設計したメルセデス・ベンツSSKをルドルフ・カラチオラが操縦するので、ニュルブルクリンクのドイツGPへ出かけましたね。お金がなくてテントで寝ましたよ。カラチオラは最高時速133.2kmで優勝しましたね」

 父親は静かに体を横たえたまま動く気配がなかった。  1951年1月30日、午後1時48分、工学博士フェルディナント・ポルシェは、シュツットガルト・ツッフェンハウゼンの自宅で78歳の生涯を閉じた。

「わしは100歳まで生きたい。というのは、わしにはまだやることが残っている」。これは老ポルシェ博士が洩らした最後の言葉である。

S10_0269_a4.jpg▲1951年春に500台目のポルシェ356が工場から出荷された

 フォルクスワーゲンは、第2次大戦後になって、やっと文字どおり、ドイツ国民のための、いや世界市民のための実用小型車として世界の路上に登場するが、そのいきさつは少しややこしい。

 ドイツの敗北で、VWの町ウォルフスブルクは米英仏ソの4カ国協定によって占領軍の手で管理される。はじめにイギリス軍の手で工場が再開、1946年までに約1万台のビートルが生産される。48年ドイツへの返還が決まり、その秋イギリス軍は撤退していく。再建の手は、ポルシェ博士の同僚だったハインツ・ノルトホフ博士に任される。

 当時、ポルシェ一家は戦犯容疑で手の出しようもなかったのだ。しかし、ノルトホフの経営手腕は見事に結実して、やがてフォルクスワーゲン社は世界の巨大企業へと伸びていく。その成長ぶりを「生みの親より育ての親」という表現で書いた本をボクは読んだことがある。

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 フェルディナント・ポルシェにとっては、フォルクスワーゲンは「悪魔のクルマ」だったかもしれない。しかし、小さな体で大きな力というVWの思想は、クルマを金持ち階級の専有物から市民の乗り物へと変えたし、リア・エンジン、リア・ドライブのアイデアを定着させた技術は特筆しておきたい。それはボヘミアン魂と呼んでいい。

 戦後の繁栄ぶりだけから見ると、フォルクスワーゲンの世界制覇は育ての親の力かもしれないが、やっぱりVWはポルシェがいてはじめて生まれ、成功した歴史的クルマだと、ボクは考える。
(ポルシェ父子物語了)

ポルシェ父子物語
第1回「チェコ出身の技術者は、ドイツの国民車構想に夢と希望を託した」
第2回「1934年、フォルクスワーゲン計画発表、国民車開発がスタート」
第3回「ポルシェ博士は戦犯として収容所生活を送る。息子フェリーの愛情」
第4回「第2次大戦後、ついに博士の悲願だった国民車の生産がスタートする」

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