2026年3月号の特集は「人とクルマの物語」。そして表紙はVWビートルである。特集ではオーナーと愛車が紡ぐストーリーを展開しているが、ここでは「人とビートルの物語」を紹介しよう。
まずビートル、通称タイプ1のプロフィールだが、1938年に「KdF」のネーミングで産声をあげ、第2次世界大戦後の1945年から量産がスタート。2003年に生産を終了するまで一度もモデルチェンジすることなく累計生産台数約2153万台という偉大な記録を樹立した。
ビートルの誕生には、野心的な政治家が関係していた。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を率いるアドルフ・ヒトラーである。ヒトラーとその一派による政治的、社会的な犯罪はともかく、ヒトラーはドイツ国民に等しく「クルマのある生活」を与え、都市間交通の要として高速自動車道路網(アウトバーン)を建設することをマニフェストに掲げていた。その実現のため、1934年ごろ、まったく新しい経済的な小型車(=国民車)の開発・生産を企画する。設計者として白羽の矢を立てたのは、1930年にシュツットガルトに自らの事務所を開いたフェルディナンド・ポルシェ博士だった。
ポルシェ博士にとって、経済的な小型車を生み出すのは長年の夢だった。すでに何台かの試作車を設計していたほどだ。ちなみにポルシェ博士は、1923年にダイムラー社の主任設計者に就任、その後、ダイムラーがベンツと合併した以降も設計のトップを務めた経歴の持ち主である。卓越した技術への理解と設計能力で名声を確立していた。だがダイムラー・ベンツ社には小型車の計画はなかった。夢を実現することは不可能。ポルシェ博士が独立し、自らの事務所を開設したのは、小型車設計の可能性を探るため。そこに国家的な事業として小型ファミリーカーの設計と生産化の話が持ち込まれたのである。ポルシェ博士が快諾したのは当然の流れだった。生粋の自動車技術者である彼には、当然のことながら政治的な野心は微塵もなかった。
ポルシェ博士は嬉々としてクルマ作りに没頭。そして耐久性を重視したコンパクトな水平対向エンジン、優れた走りを生むRRレイアウト、空気抵抗を抑えたボディフォルムを持つ名車を生み出す。
このクルマは「KdF=Kraft durch Freude(喜びのうちに力強くの意)」と名付けられ1938年に発表。その生産のためウォルフスブルグに最新工場が建設された。だが戦前、KdFは生産されることはなかった。代わって工場のラインを流れたのはKdFのメカニズムを踏襲した軍用車たちだった。
ビートルがようやく量産を開始したのは戦争終結後。工場は、連合軍の空爆により6割方が瓦礫の山となっていたが、この地を占領統括した英国軍の責任者だったアイヴァン・ハーストがビートルの価値を見出し、残された生産設備を使ってKdFの生産をスタートさせた。そのタイミングで「国民車」のドイツ語表記である「VOLKSWAGEN」が車名となった。
誕生に戦争が影を落としたビートル。だが生産が本格スタートすると、世界中で人気が爆発。ポルシェ博士が望んだとおり、大衆にクルマの素晴らしさと、モータリングの夢を与える存在となった。後年、ビートルが派生車のワーゲンバスとともに、「自由と平和」を唱えるフラワームーブメントの象徴にもなったのは興味深い。
